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朝鮮王朝宮中飲食(チョソンワンジョ クンジュンウムシク、조선왕조 궁중음식)は、朝鮮時代(1392~1910年)に宮中で食べられていた料理、飲料の総称。料理の中には新羅時代、高麗時代に完成されたものも含まれる。「朝鮮王朝宮中飲食」の名前で、調理方法と配膳方法が国の重要無形文化財第38号に指定されており、初代の技能保有者は宮中の尚宮(女官)であった韓煕順(ハン・ヒスン、한희순)氏、2代目は黄慧性(ファン・ヘソン、황혜성)氏、現在の3代目は韓福麗(ハン・ボンニョ、한복려)氏と、鄭吉子(チョン・ギルジャ、정길자)氏の2名。
 
朝鮮王朝宮中飲食(チョソンワンジョ クンジュンウムシク、조선왕조 궁중음식)は、朝鮮時代(1392~1910年)に宮中で食べられていた料理、飲料の総称。料理の中には新羅時代、高麗時代に完成されたものも含まれる。「朝鮮王朝宮中飲食」の名前で、調理方法と配膳方法が国の重要無形文化財第38号に指定されており、初代の技能保有者は宮中の尚宮(女官)であった韓煕順(ハン・ヒスン、한희순)氏、2代目は黄慧性(ファン・ヘソン、황혜성)氏、現在の3代目は韓福麗(ハン・ボンニョ、한복려)氏と、鄭吉子(チョン・ギルジャ、정길자)氏の2名。
  
*宮中飲食
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*宮中飲食(宮中料理)
:朝鮮時代になって1394年に都がソウル(漢陽)に移されると、翌1395年には正宮として景福宮が建てられた。王、王妃、王大妃らの食事は水剌(スラ、수라)と呼ばれ、日常の水剌は景福宮内の焼厨房(ソジュバン、소주방)、または水剌間(スラカン、수라간)と呼ばれる厨房施設において、女官の厨房尚宮(チュバンサングン、주방상궁)らによって作られた。また国家的な行事などの宴会食は、待令熟手(テリョンスクス、대령숙수)と呼ばれる男性料理人によって作られ、日常の水剌と宴会食とを総称して宮中飲食と呼ぶ。
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:朝鮮時代になって1394年に都がソウル(漢陽)に移されると、翌1395年には正宮として景福宮が建てられた。王、王妃、王大妃らの食事は水剌(スラ、수라)と呼ばれ、日常の水剌は景福宮内の焼厨房(ソジュバン、소주방)、または水剌間(スラカン、수라간)と呼ばれる厨房施設において、女官の厨房尚宮(チュバンサングン、주방상궁)らによって作られた。また国家的な行事などの宴会食は、待令熟手(テリョンスクス、대령숙수)と呼ばれる男性料理人によって作られ、日常の水剌と宴会食とを総称して[[:Category:宮中料理の一覧|宮中飲食(宮中料理)]]と呼ぶ。
  
 
*歴史
 
*歴史
:1910年の日韓併合によって宮中の食文化は途絶える危機にあった。ソウルの淑明女子専門学校(現在の淑明女子大学校)で家政学を教えていた黄慧性氏は、歴史学者でもある小田省吾校長のすすめもあって、1942年から昌徳宮の楽善斎にて宮中料理を学んだ。当時の楽善斎には純宗(第27代)妃の純貞孝皇后尹氏(尹妃)が暮らしており、のちに朝鮮王朝宮中飲食の初代技能保有者となる韓熙順尚宮を含め、5人の厨房尚宮が尹妃の料理を作っていた。口伝のみで記録を残さない女官たちの技術が、このとき初めて民間に伝えられ、失われる寸前で現代まで残ることとなった。従って、今日の韓国で宮中料理と呼ばれているものは、朝鮮時代末期の食文化が基本となっており、そこに文献上の記録をたどって復元したものが加わっている。朝鮮王朝宮中飲食は1970年に国の重要無形文化財に指定された。
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:1910年の日韓併合によって宮中の食文化は途絶える危機にあった。ソウルの淑明女子専門学校(現在の淑明女子大学校)で家政学を教えていた黄慧性氏は、歴史学者でもある小田省吾校長のすすめもあって、1942年から昌徳宮内の楽善斎にて[[:Category:宮中料理の一覧|宮中料理]]を学んだ。当時の楽善斎には純宗(第27代)妃の純貞孝皇后尹氏(尹妃)が暮らしており、のちに朝鮮王朝宮中飲食の初代技能保有者となる韓熙順尚宮を含め、5人の厨房尚宮が尹妃の料理を作っていた。口伝のみで記録を残さない女官たちの技術が、このとき初めて民間に伝えられ、失われる寸前で現代まで残ることとなった。従って、今日の韓国で宮中料理と呼ばれているものは、朝鮮時代末期の食文化が基本となっており、そこに文献上の記録をたどって復元したものが加わっている。朝鮮王朝宮中飲食は1970年に国の重要無形文化財に指定された。
  
 
*トク(餅/떡)鍾路区楽園洞
 
*トク(餅/떡)鍾路区楽園洞
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