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1883年に[[仁川市の料理|仁川市]]で仁川港(インチョンハン、인천항)が開かれると、中国の山東省などから大勢の中国人が渡ってきた。彼らの伝えた代表的な中華料理のひとつがチャジャンミョンであり、当初は同胞向けに作って食べたものが、徐々に韓国でもローカライズして浸透した。当時の代表的な中華料理店としては1908年頃に創業した「共和春(공화춘)」があり、1983年に閉店したが、その跡地は現在「チャジャンミョン博物館(짜장면박물관)」として歴史を伝えている。
 
1883年に[[仁川市の料理|仁川市]]で仁川港(インチョンハン、인천항)が開かれると、中国の山東省などから大勢の中国人が渡ってきた。彼らの伝えた代表的な中華料理のひとつがチャジャンミョンであり、当初は同胞向けに作って食べたものが、徐々に韓国でもローカライズして浸透した。当時の代表的な中華料理店としては1908年頃に創業した「共和春(공화춘)」があり、1983年に閉店したが、その跡地は現在「チャジャンミョン博物館(짜장면박물관)」として歴史を伝えている。
  
=== 文献上の記録 ===
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=== 1920~30年代 ===
チャジャンミョンに関する文献上の記録は、1920年代から新聞や雑誌の記事として見られる。ただし、ウドン(中華風の五目麺、[[우동2|우동]])や、[[タンスユク(酢豚/탕수육)]]、[[チャプチェ(春雨炒め/잡채)]]、ヤンジャンピ(板春雨の冷菜、[[양장피2|양장피]])といった他の中華料理に比べると登場の頻度は少なく、現在のように国民食として親しまれるのは1950年代以降と見られる。
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チャジャンミョンに関する記録は、1920~30年代の新聞、雑誌記事に見られ、当時から大衆的な中華料理として根付いていたと推測される。ただし、ウドン(中華風の五目麺、[[우동2|우동]])や、[[タンスユク(酢豚/탕수육)]]、[[チャプチェ(春雨炒め/잡채)]]、ヤンジャンピ(板春雨の冷菜、[[양장피2|양장피]])といった他の中華料理に比べると登場の頻度は少なく、現在のように国民食として親しまれるのは1950年代以降と見られる。
  
;朝鮮日報(1923年)の記述
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;『朝鮮日報』(1923年)の記述
:1923年1月23日発行の紙面に「物産奨励会に与する」という見出しの記事があり、文中に漢字で「炸醤麺」が登場する。朝鮮物産奨励会の発足を伝える内容で、自国内で生産される物産が少なく、外国から入ってきたものが多いことの例として、裕福な人は洋食を食べ、庶民とてそれが日常食のすべてではないものの、「チャジャンミョンや、ヤンジャンピ(中華風冷菜)を食べ、貧しい者でもできたてのマンドゥ(餃子)や固いローピンなどを食べる」している<ref>[https://newslibrary.chosun.com/view/article_view.html?id=86619230123e1012&set_date=19230123&page_no=1 물산장려회(物產奬勵會)에 여(與)하노라] 、朝鮮ニュースライブラリー100、2022年2月19日閲覧</ref>。
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:1923年1月23日発行の紙面に「物産奨励会に与する」という見出しの記事があり、文中に漢字で「炸醤麺」との記述がある。朝鮮物産奨励会の発足を伝える内容で、自国内で生産される物産が少なく、外国から入ってきたものが多いことの例として、裕福な人は洋食を食べ、庶民とてそれが日常食のすべてではないものの、「チャジャンミョンや、ヤンジャンピ(中華風冷菜)を食べ、貧しい者でもできたてのマンドゥ(餃子)や固いローピン(小麦粉のお焼き)などを食べる」としている<ref>[https://newslibrary.chosun.com/view/article_view.html?id=86619230123e1012&set_date=19230123&page_no=1 물산장려회(物產奬勵會)에 여(與)하노라] 、朝鮮ニュースライブラリー100、2022年2月19日閲覧</ref>。
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;『東亜日報』(1930年)の記述
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:1930年9月6日発行の紙面に「欧州行(五)インド洋を越えて立ち」という旅行記があり、文中に漢字で「炸醤麺」との記述がある。イタリアで食べた「マカロニ(パスタ?)」の中には中国の麺を彷彿させるものもあるとしたうえで、ケチャップ味のものを「燕京食堂で食べた炸醤麺と、なぜこんなにも似ているのでしょう」と描写している<ref>[https://newslibrary.naver.com/viewer/index.naver?articleId=1930090600209206004&editNo=1&printCount=1&publishDate=1930-09-06&officeId=00020&pageNo=6&printNo=3478&publishType=00020 欧州行(五)印度洋건너서서] 、NAVERニュースライブラリー、2022年2月19日閲覧</ref>。
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;『別乾坤』(1934年)の記述
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:1934年1月1日発行の雑誌『別乾坤 第69号』に、「ユーモア オーケストラ、漫談」との記事があり、文中にチャジャンミョンの記述がある。大ボラを吹くような話として、登場人物のひとりがビルのような厨房に世界中のシェフを集め、「インド式の冷麺や、ブラジル式のニシン焼き、満州国式のチャジャンミョンでもなんでも好きなものを食べろ」と語るセリフがある<ref>[http://db.history.go.kr/item/level.do?setId=1&totalCount=1&itemId=ma&synonym=off&chinessChar=on&page=1&pre_page=1&brokerPagingInfo=&position=0&levelId=ma_015_0630_0040&searchKeywordType=BI&searchKeywordMethod=EQ&searchKeyword=%EC%A7%9C%EC%9E%A5%EB%A9%B4&searchKeywordConjunction=AND 별건곤 제69호  >  유모어 오케스트라, 漫談] 、韓国史データベース、2022年2月19日閲覧</ref>。
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;『朝鮮日報』(1935年)の記述
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:1935年2月23日発行の紙面に「汽車(一)」との紀行文があり、知人を訪ねて忠清南道礼山郡の挿橋駅で降り、「なんとか楼と書かれた中国料理店に入って所謂『チャジャンミョン』というものを食べ」たとの記述がある<ref>[https://newslibrary.naver.com/viewer/index.naver?articleId=1935022300239204001&editNo=1&printCount=1&publishDate=1935-02-23&officeId=00023&pageNo=4&printNo=4936&publishType=00020 汽車(一)] 、NAVERニュースライブラリー、2022年2月19日閲覧</ref>。
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;『東亜日報』(1936年)の記述
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:1930年2月16日発行の紙面に「第三回全朝鮮男女専門学校卒業生大懇親会後期」との特集記事があり、その中に「大会余禄 印象の点描」としてチャジャンミョンの記述がある。卒業生への祝辞として、「(先生方は)ウドン、チャジャンミョンを食べ、冷めた弁当を食べてあなたたちを教えた」との一節があったことを紹介している<ref>[https://newslibrary.naver.com/viewer/index.naver?articleId=1936021600209203021&editNo=2&printCount=1&publishDate=1936-02-16&officeId=00020&pageNo=3&printNo=5466&publishType=00020 大会余禄 印象의点描] 、NAVERニュースライブラリー、2022年2月19日閲覧</ref>。
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;『朝鮮日報』(1938年)の記述
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:1938年11月9日発行の紙面に「秋収記(三)衣・食」とのエッセイがあり、田舎に行くとろくな食べ物がないとの文脈から、「(村の中心部でも)せいぜい『チャジャンミョン』か『チャンクッパプ(クッパ)』だが、これも名前は同じでもソウルとは比較にならない」との記述がある<ref>[https://newslibrary.naver.com/viewer/index.naver?articleId=1938110900239205015&editNo=1&printCount=1&publishDate=1938-11-09&officeId=00023&pageNo=5&printNo=6287&publishType=00020 秋収記(三)衣・食] 、NAVERニュースライブラリー、2022年2月19日閲覧</ref>。
  
 
*共和春
 
*共和春
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