「オデン(おでん/오뎅)」の版間の差分

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*東亜日報の記事
 
*東亜日報の記事
 
:1927年9月25日付けの「東亜日報」には、「優良水産製品に補助金を交付」という記事があり、統営郡の優良水産製品として「蒲鉾」があげられている<ref>[http://newslibrary.naver.com/viewer/index.nhn?articleId=1927092500209204010&editNo=1&printCount=1&publishDate=1927-09-25&officeId=00020&pageNo=4&printNo=2539&publishType=00020 優良水產製品에 補助金을交付] 、NAVERニュースライブラリー、2017年10月28日閲覧</ref>。
 
:1927年9月25日付けの「東亜日報」には、「優良水産製品に補助金を交付」という記事があり、統営郡の優良水産製品として「蒲鉾」があげられている<ref>[http://newslibrary.naver.com/viewer/index.nhn?articleId=1927092500209204010&editNo=1&printCount=1&publishDate=1927-09-25&officeId=00020&pageNo=4&printNo=2539&publishType=00020 優良水產製品에 補助金을交付] 、NAVERニュースライブラリー、2017年10月28日閲覧</ref>。
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;ソウルのコンニャク売り
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:釜山や統営を中心に練り物製造の文化が発達したのに対し、ソウルでは1920年代後半から屋台で料理としてのオデンを扱った。作家、趙豊衍(조풍연)の回顧によれば、当時は「天ぷらと肉、それにコンニャクの三種類」を大鍋で扱ったとしている<ref name="tenpura">趙豊衍, 1995, 『韓国の風俗-いまは昔-』, 南雲堂, P37</ref>。それぞれの具についての説明はないが、西日本でも揚げた練り製品を天ぷらと呼ぶ地域があるように、こここでの天ぷらも練り製品であると考えられる。
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*趙豊衍の報告
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:1914年生まれの作家、趙豊衍は著書『韓国の風俗-いまは昔-』にて、1920年代後半のソウルにおけるオデン事情を回顧している。当時の京城府貫鉄町(現在のソウル市鍾路区貫鉄洞)には「優美館(우미관)」という映画館があり、その周辺でオデンを販売した通称「コンニャク売り」について以下のように述べている。
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:「コンニャク売りというのは、映画館の前に大きな鍋をしかけ、俗にいう『おでん』を売っていた店である。天ぷらと肉、それにコンニャクの三種類だけだったが、これを串に刺して売っていた。天ぷらとコンニャクは一銭、肉は二銭だった。観劇を終え、劇場から出てきて、こいつを一本か二本つまむ。そんな感じの食べ物だ。その店でうどんを売るようになった。一杯五銭だった。だから、これにコンニャクを一串つければ、六銭になる計算だ。優美館の前にコンニャク売りは、これで金を儲け、向かいにあった日本人の清水運動具店の場所を買い取り、二階建てのうどん屋を出した。この店が、現在の『粉食(小麦粉やそば粉でこしらえた食べ物)』センター」の元祖だというから、始まりは一九二七年頃ということになる。うどん一杯が五銭(日本人の店では七銭)。味付けを韓国人の口に合わせて濃いめにし、量を多くしてこれに沢庵を一切れつけた。うどんに沢庵をつけるようになったのは、この時からである。おでんも売っていたから、うどんの他におでんを二本ほどつけ、全部で七銭も食べれば上等だった」<ref name="tenpura"></ref>
  
 
=== 1930年代 ===
 
=== 1930年代 ===
29,490

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