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:木浦市は19世紀後半まで小さな漁村であったが、1897年に木浦港(モッポハン、목포항)が開港し、また1913年に湖南線(ホナムソン、호남선)の木浦駅が開業したことで交通の要衝地として発達した。木浦港や木浦駅は、周辺地域でとれた米を日本へと輸送(韓国では多く「収奪」と表現される)する拠点の役割を担っており、日本の国策企業として拓殖事業を行う「東洋拓殖株式会社木浦支店」が設立されるなど、多くの日本人が移り住むに至った。1900年に建てられた日本領事館と、東洋拓殖株式会社木浦支店の建物は、現在「木浦近代歴史館」の1館、2館としてそれぞれ当時の歴史を伝えている。 | :木浦市は19世紀後半まで小さな漁村であったが、1897年に木浦港(モッポハン、목포항)が開港し、また1913年に湖南線(ホナムソン、호남선)の木浦駅が開業したことで交通の要衝地として発達した。木浦港や木浦駅は、周辺地域でとれた米を日本へと輸送(韓国では多く「収奪」と表現される)する拠点の役割を担っており、日本の国策企業として拓殖事業を行う「東洋拓殖株式会社木浦支店」が設立されるなど、多くの日本人が移り住むに至った。1900年に建てられた日本領事館と、東洋拓殖株式会社木浦支店の建物は、現在「木浦近代歴史館」の1館、2館としてそれぞれ当時の歴史を伝えている。 | ||
*木浦共生園(목포공생원) | *木浦共生園(목포공생원) | ||
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:木浦共生園(モッポゴンセンウォン、목포공생원)は、竹橋洞(チュッキョドン、죽교동)に位置する児童養護施設。1928年にキリスト教の伝道師である尹致浩(ユン・ジホ、윤지호)氏によって設立された。尹致浩氏は、1938年に結婚した高知県出身の田内千鶴子(たうちちづこ)/韓国名は尹鶴子(ユン・ハクチャ、윤학자)氏と結婚するも、1950年に朝鮮戦争の混乱で消息を絶った。残された田内千鶴子氏はひとりで事業を継続し、1968年に亡くなるまでに3000人もの孤児を育てた。木浦市による市民葬には3万人もの人が訪れて死を悼み、現在も「木浦の母(목포의 어머니)」「韓国孤児の母(한국고아의 어머니)」と呼ばれて尊敬を集める。木浦共生園では、園の歩みをまとめた日本語の映像資料を視聴できる。1997年には田内千鶴子氏の生涯を描いた映画『愛の黙示録』が制作された。 | :木浦共生園(モッポゴンセンウォン、목포공생원)は、竹橋洞(チュッキョドン、죽교동)に位置する児童養護施設。1928年にキリスト教の伝道師である尹致浩(ユン・ジホ、윤지호)氏によって設立された。尹致浩氏は、1938年に結婚した高知県出身の田内千鶴子(たうちちづこ)/韓国名は尹鶴子(ユン・ハクチャ、윤학자)氏と結婚するも、1950年に朝鮮戦争の混乱で消息を絶った。残された田内千鶴子氏はひとりで事業を継続し、1968年に亡くなるまでに3000人もの孤児を育てた。木浦市による市民葬には3万人もの人が訪れて死を悼み、現在も「木浦の母(목포의 어머니)」「韓国孤児の母(한국고아의 어머니)」と呼ばれて尊敬を集める。木浦共生園では、園の歩みをまとめた日本語の映像資料を視聴できる。1997年には田内千鶴子氏の生涯を描いた映画『愛の黙示録』が制作された。 | ||