「羅州市の料理」の版間の差分

 
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== 地域概要 ==
 
== 地域概要 ==
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[[ファイル:25032001.JPG|300px|thumb|栄山江]]
 
羅州市は[[全羅南道の料理|全羅南道]]の中西部に位置する地域。市の北部は広域市の[[光州市の料理|光州市]]、東部は[[全羅南道の料理|全羅南道]]の[[和順郡の料理|和順郡]]、南部は[[全羅南道の料理|全羅南道]]の[[霊岩郡の料理|霊岩郡]]、南西部は[[全羅南道の料理|全羅南道]]の[[務安郡の料理|務安郡]]、北西部は[[全羅南道の料理|全羅南道]]の[[咸平郡の料理|咸平郡]]と接する。人口は11万6752人(2024年10月)<ref>[https://jumin.mois.go.kr/ 주민등록 인구 및 세대현황] 、行政安全部ウェブサイト、2024年11月17日閲覧</ref>。
 
羅州市は[[全羅南道の料理|全羅南道]]の中西部に位置する地域。市の北部は広域市の[[光州市の料理|光州市]]、東部は[[全羅南道の料理|全羅南道]]の[[和順郡の料理|和順郡]]、南部は[[全羅南道の料理|全羅南道]]の[[霊岩郡の料理|霊岩郡]]、南西部は[[全羅南道の料理|全羅南道]]の[[務安郡の料理|務安郡]]、北西部は[[全羅南道の料理|全羅南道]]の[[咸平郡の料理|咸平郡]]と接する。人口は11万6752人(2024年10月)<ref>[https://jumin.mois.go.kr/ 주민등록 인구 및 세대현황] 、行政安全部ウェブサイト、2024年11月17日閲覧</ref>。
  
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*全羅道の由来
 
*全羅道の由来
:朝鮮半島の南西部を占める地域を広く全羅道(チョルラド、전라도)と呼び、[[全州市の料理|全州市]]、羅州市の頭文字をとったものである。高麗時代の1018年に一帯を全羅州道を名付けたのが始まりで、これがのちに全羅道になった。
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:朝鮮半島の南西部を占める地域を広く全羅道(チョルラド、전라도)と呼び、[[全州市の料理|全州市]]、羅州市の頭文字をとったものである。高麗時代の1018年に一帯を全羅州道と名付けたのが始まりで、これがのちに全羅道になった。
  
 
== 食文化の背景 ==
 
== 食文化の背景 ==
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[[ファイル:23100907.JPG|thumb|300px|ナジュコムタン]]
 
[[ファイル:23100907.JPG|thumb|300px|ナジュコムタン]]
 
=== ナジュコムタン(羅州式の牛スープ/나주곰탕) ===
 
=== ナジュコムタン(羅州式の牛スープ/나주곰탕) ===
:ナジュコムタン([[나주곰탕]])は、羅州式の牛スープ(「[[コムタン(牛スープ/곰탕)]]」の項目も参照)。ナジュ(나주)は地名の羅州、コムタン([[곰탕]])は牛スープを表す。羅州市のウェブサイトでは、一般的な[[コムタン(牛スープ/곰탕)|コムタン]]に比べて「牛骨の使用が少なく、牛外バラ肉([[양지살]])や牛スネ肉([[사태]])などの肉部位を煮込んでスープを作る」<ref>[https://www.naju.go.kr/tour/food/taste_road/gomtang 나주곰탕거리] 、羅州文化観光、2024年5月15日閲覧</ref>と説明している。そのためスープの色合いは白濁せず、澄んだ色合いか、または粉唐辛子を振ることで赤茶けて見えることもある。羅州錦城館(ナジュクムソングァン、나주금성관)の付近に専門店が多く、一帯は「ナジュコムタン通り(나주곰탕거리)」と呼ばれる。1910年創業で韓国の飲食店として2番目に古い歴史を持つ「ハヤンチプ(하양집)」をはじめ、「ノアンチプ(노안집)」「ナムピョンハルメチプ(남평할매집)」といった有名店がある。
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:ナジュコムタン([[나주곰탕]])は、羅州式の牛スープ(「[[コムタン(牛スープ/곰탕)]]」の項目も参照)。ナジュ(나주)は地名の羅州、コムタン([[곰탕]])は牛スープを表す。発音はナジュゴムタンがより近い。羅州市のウェブサイトでは、一般的な[[コムタン(牛スープ/곰탕)|コムタン]]に比べて「牛骨の使用が少なく、牛外バラ肉([[양지살]])や牛スネ肉([[사태]])などの肉部位を煮込んでスープを作る」<ref>[https://www.naju.go.kr/tour/food/taste_road/gomtang 나주곰탕거리] 、羅州文化観光、2024年5月15日閲覧</ref>と説明している。そのためスープの色合いは白濁せず、澄んだ色合いか、または粉唐辛子を振ることで赤茶けて見えることもある。羅州錦城館(ナジュクムソングァン、나주금성관)の付近に専門店が多く、一帯は「ナジュコムタン通り(나주곰탕거리)」と呼ばれる。1910年創業で韓国の飲食店として2番目に古い歴史を持つ「ハヤンチプ(하양집)」をはじめ、「ノアンチプ(노안집)」「ナムピョンハルメチプ(남평할매집)」といった有名店がある。
  
 
*由来
 
*由来
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=== チャンオグイ(ウナギ焼き/장어구이) ===
 
=== チャンオグイ(ウナギ焼き/장어구이) ===
:チャンオグイ([[장어구이]])は、ウナギ焼き(「[[チャンオグイ(ウナギ焼き/장어구이)]]」の項目も参照)。市中央部の多侍面佳雲里(タシミョン カウルリ、다시면 가운리)は九津浦(クジンポ、구진포)と呼ばれ、かつては栄山江を行き来する船着き場として賑わった。九津浦一帯は海水と淡水の混ざる汽水域で、1981年12月に栄山江河口堰ができる前までは天然ウナギの好漁場であった。九津浦のウナギはドジョウを食べて育つことから味がよいと高く評価されていた。現在は漁獲量の減少から養殖ウナギの利用が主流となっているが、一帯には老舗のウナギ料理専門店が集まっており、「九津浦ウナギ通り(구진포 장어거리)」として名声を誇る。専門店では[[チャンオグイ(ウナギ焼き/장어구이)|チャンオグイ]]を、ソグムグイ(塩焼き、[[소금구이]])とヤンニョムグイ(薬味ダレ焼き、[[양념구이]])で提供するほか、チャンオタン(ウナギのスープ、[[장어탕]])も用意している。同地域の有名店に「シヌンジャンオ(신흥장어)」「九津浦チェイルジャンオ(구진포제일장어)」「テスンジャンオ(대승장어)」などがある。
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:チャンオグイ([[장어구이]])は、ウナギ焼き(「[[チャンオグイ(ウナギ焼き/장어구이)]]」の項目も参照)。市中央部の多侍面佳雲里(タシミョン カウルリ、다시면 가운리)は九津浦(クジンポ、구진포)と呼ばれ、かつては栄山江を行き来する船着き場として賑わった。九津浦一帯は海水と淡水の混ざる汽水域で、1981年12月に栄山江河口堰ができる前までは天然ウナギの好漁場であった。九津浦のウナギはドジョウ([[미꾸라지]])を食べて育つことから味がよいと高く評価されていた。現在は漁獲量の減少から養殖ウナギの利用が主流となっているが、一帯には老舗のウナギ料理専門店が集まっており、「九津浦ウナギ通り(구진포 장어거리)」として名声を誇る。専門店では[[チャンオグイ(ウナギ焼き/장어구이)|チャンオグイ]]を、ソグムグイ(塩焼き、[[소금구이]])とヤンニョムグイ(薬味ダレ焼き、[[양념구이]])で提供するほか、チャンオタン(ウナギのスープ、[[장어탕]])も用意している。同地域の有名店に「シヌンジャンオ(신흥장어)」「九津浦チェイルジャンオ(구진포제일장어)」「テスンジャンオ(대승장어)」などがある。
  
 
*由来
 
*由来
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:羅州梨の歴史を紐解くと、原三国時代からの歴史があると語られることが多い。これは『三国志』「魏書第30巻 烏丸鮮卑東夷伝」の馬韓に関する記述に「出大栗大如梨(梨のような大きさの栗がある)」<ref>[https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%BF%97/%E5%8D%B730?uselang=ja 三國志/卷30] 、維基文庫(中国語版ウィキソース)、2024年11月16日閲覧</ref>とあるのを根拠として、間接的に梨もあっただろうと推測するものである。
 
:羅州梨の歴史を紐解くと、原三国時代からの歴史があると語られることが多い。これは『三国志』「魏書第30巻 烏丸鮮卑東夷伝」の馬韓に関する記述に「出大栗大如梨(梨のような大きさの栗がある)」<ref>[https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%BF%97/%E5%8D%B730?uselang=ja 三國志/卷30] 、維基文庫(中国語版ウィキソース)、2024年11月16日閲覧</ref>とあるのを根拠として、間接的に梨もあっただろうと推測するものである。
  
:より具体的な記録としては、朝鮮時代の1454年に編纂された『世宗実録地理志(세종실록지리지)』に、当時の羅州牧(나주목)から中央に献上された物品として梨が含まれている<ref>[https://sillok.history.go.kr/id/kda_40007002 세종실록 151권, 지리지 전라도 나주목] 、朝鮮王朝実録ウェブサイト、2024年11月17日閲覧</ref>。ほかにも、1871年編纂の『湖南邑誌(호남읍지)』(第1巻 羅州)には「進貢」の項目に「生梨」との記述があり<ref>[https://kyujanggak.snu.ac.kr/kyuview/orgviewer.jsp?tid=geo&uci=GK12175_00IH_0001&page=40 호남읍지(湖南邑誌) / 1책(40면/286)] 、奎章閣韓国学研究院ウェブサイト、2024年11月17日閲覧</ref>、1897年編纂の『錦城邑誌(금성읍지)』にも「進貢」の項目に「生梨」があることから<ref>[http://kostma.korea.ac.kr/viewer/viewerDes?uci=RIKS+CRMA+KSM-WV.1897.0000-20150331.NS_0308 금성읍지(錦城邑誌) / 제1책(17/83)] 、高麗大学校海外韓国学資料センター、2024年11月17日閲覧</ref>、羅州梨は宮中御用達の品としてブランド化に一役買っている。『錦城邑誌(금성읍지)』には「物産」の項目にも「居平梨」との記述があり、居平県=現在の羅州市文平面(ムンピョンミョン、문평면)が名産地であったとわかる<ref>[http://kostma.korea.ac.kr/viewer/viewerDes?uci=RIKS+CRMA+KSM-WV.1897.0000-20150331.NS_0308 금성읍지(錦城邑誌) / 제1책(19/83)] 、高麗大学校海外韓国学資料センター、2024年11月17日閲覧</ref>。
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:より具体的な記録としては、朝鮮時代の1454年に編纂された『世宗実録地理志(세종실록지리지)』に、当時の羅州牧(나주목)から中央に献上された物品として梨が含まれている<ref>[https://sillok.history.go.kr/id/kda_40007002 세종실록 151권, 지리지 전라도 나주목] 、朝鮮王朝実録ウェブサイト、2024年11月17日閲覧</ref>。ほかにも、1871年編纂の『湖南邑誌(호남읍지)』(第1巻 羅州)には「進貢」の項目に「生梨」との記述があり<ref>[https://kyujanggak.snu.ac.kr/kyuview/orgviewer.jsp?tid=geo&uci=GK12175_00IH_0001&page=40 호남읍지(湖南邑誌) / 1책(40면/286)] 、奎章閣韓国学研究院ウェブサイト、2024年11月17日閲覧</ref>、1897年編纂の『錦城邑誌(금성읍지)』にも「進貢」の項目に「生梨」があることから<ref>[http://kostma.korea.ac.kr/viewer/viewerDes?uci=RIKS+CRMA+KSM-WV.1897.0000-20150331.NS_0308 금성읍지(錦城邑誌) / 제1책(17/83)] 、高麗大学校海外韓国学資料センター、2024年11月17日閲覧</ref>、羅州梨は宮中御用達の品であったとしてブランドイメージに一役買っている。『錦城邑誌(금성읍지)』には「物産」の項目にも「居平梨」との記述があり、居平県=現在の羅州市文平面(ムンピョンミョン、문평면)が名産地であったとわかる<ref>[http://kostma.korea.ac.kr/viewer/viewerDes?uci=RIKS+CRMA+KSM-WV.1897.0000-20150331.NS_0308 금성읍지(錦城邑誌) / 제1책(19/83)] 、高麗大学校海外韓国学資料センター、2024年11月17日閲覧</ref>。
  
 
:20世紀に入ると、日本人によって晩三吉、今村秋、長十郎などの日本産品種が多く持ち込まれた。1904年に羅州市へ渡った長崎県出身の松藤傳六が、1910年(1906年など諸説ある)に果樹園を開いたことをきっかけとして、大規模な栽培が広まったとされる<ref>[https://www.naju.go.kr/www/introduction/products/naju_pear 나주배의 재배연혁] 、羅州市ウェブサイト、2024年11月17日閲覧</ref>。1929年9月に京城府(現、[[ソウル市の料理|ソウル市]])で開かれた朝鮮博覧会では、当時の羅州郡から早生梨を出品した李棟奎(イ・ドンギュ、이동규)氏が銅牌を受賞している<ref>[https://blog.naver.com/bukgu/221579596323 나주배박물관 소장, 조선박람회 상장의 가치는?] 、園芸学者ホ・ボック(허복구)氏のブログ、2024年11月17日閲覧</ref>。
 
:20世紀に入ると、日本人によって晩三吉、今村秋、長十郎などの日本産品種が多く持ち込まれた。1904年に羅州市へ渡った長崎県出身の松藤傳六が、1910年(1906年など諸説ある)に果樹園を開いたことをきっかけとして、大規模な栽培が広まったとされる<ref>[https://www.naju.go.kr/www/introduction/products/naju_pear 나주배의 재배연혁] 、羅州市ウェブサイト、2024年11月17日閲覧</ref>。1929年9月に京城府(現、[[ソウル市の料理|ソウル市]])で開かれた朝鮮博覧会では、当時の羅州郡から早生梨を出品した李棟奎(イ・ドンギュ、이동규)氏が銅牌を受賞している<ref>[https://blog.naver.com/bukgu/221579596323 나주배박물관 소장, 조선박람회 상장의 가치는?] 、園芸学者ホ・ボック(허복구)氏のブログ、2024年11月17日閲覧</ref>。
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