「オデン(おでん/오뎅)」の版間の差分

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== 歴史 ==
 
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[[ファイル:17110306.JPG|thumb|300px|店頭でオデンなどの屋台料理を販売する食堂]]
 
[[ファイル:17110306.JPG|thumb|300px|店頭でオデンなどの屋台料理を販売する食堂]]
18世紀前半に書かれた『謏聞事説』という文献に、日本から伝えられた「可麻甫串(カマボコッ)」という料理が登場するが、本格的に日本から伝えられたのは19世紀後半から20世紀初頭にかけてと考えられる。韓国では日本から近い[[釜山市の料理|釜山市]]がオデンの本場とされており、1876年の釜山港開港を機に、日本人が増加したことがきっかけになった。新聞の報道によれば、1916年にはすでに[[釜山市の料理|釜山]]だけで16軒の「蒲鉾屋」があり<ref name="kamaboko01">[http://db.history.go.kr/item/imageViewer.do?levelId=npbs_1916_10_21_v0005_0800 蒲鉾屋に注意 ▽虎疫予防に就て] 、韓国史データベース、2017年11月2日閲覧</ref>、1920年代には[[釜山市の料理|釜山]]、また同じく南部の港町である[[慶尚南道の料理|慶尚南道]]の[[統営市の料理|統営]]にて製造業者向けの講習会も開催されるなど<ref name="kamaboko02">[http://db.history.go.kr/item/imageViewer.do?levelId=npbs_1925_09_17_v0003_0480 蒲鉾製造講習 二十日より二十日間] 、韓国史データベース、2017年11月2日閲覧</ref><ref name="kamaboko03">[http://db.history.go.kr/item/level.do?setId=1&itemId=npda&synonym=off&chinessChar=on&page=1&pre_page=1&brokerPagingInfo=&position=0&levelId=npda_1925_10_02_v0004_1020 慶南水産會에서 蒲鉾講習會(釜山)] 、韓国史データベース、2017年11月2日閲覧</ref>、この時期から広く普及していったと考えられる。また、1920年代後半の[[ソウル市の料理|ソウル]]には料理としてのオデンを販売する屋台が登場している<ref name="tenpura">趙豊衍, 1995, 『韓国の風俗-いまは昔-』, 南雲堂, P37</ref>。
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18世紀前半に書かれた『謏聞事説』という文献に、日本から伝えられた「可麻甫串(カマボコッ)」という料理が登場するが、本格的に日本から伝えられたのは19世紀後半から20世紀初頭にかけてと考えられる。韓国では日本から近い[[釜山市の料理|釜山市]]がオデンの本場とされており、1876年の釜山港開港を機に、日本人が増加したことがきっかけになった。新聞の報道によれば、1916年にはすでに[[釜山市の料理|釜山]]だけで16軒の「蒲鉾屋」があり<ref name="kamaboko01">[https://db.history.go.kr/common/imageViewer.do?levelId=npbs_1916_10_21_v0005_0800 蒲鉾屋に注意 ▽虎疫予防に就て] 、韓国史データベース(釜山日報1916年10月21日記事)、2025年9月6日閲覧</ref>、1920年代には[[釜山市の料理|釜山]]、また同じく南部の港町である[[慶尚南道の料理|慶尚南道]]の[[統営市の料理|統営]]にて製造業者向けの講習会も開催されるなど<ref name="kamaboko02">[http://db.history.go.kr/common/imageViewer.do?levelId=npbs_1925_09_17_v0003_0480 蒲鉾製造講習 二十日より二十日間] 、韓国史データベース(釜山日報1925年9月17日記事)、2025年9月6日閲覧</ref><ref name="kamaboko03">[https://db.history.go.kr/common/imageViewer.do?levelId=npda_1925_10_02_v0004_1020 慶南水産會에서 蒲鉾講習會(釜山)] 、韓国史データベース(釜山日報1925年10月2日記事、2025年9月6日閲覧</ref>、この時期から広く普及していったと考えられる。また、1920年代後半の[[ソウル市の料理|ソウル]]には料理としてのオデンを販売する屋台が登場している<ref name="tenpura">[https://dl.ndl.go.jp/pid/13130042/1/21 趙豊衍, 1995, 『韓国の風俗-いまは昔-』, 南雲堂, P37] 、国立国会図書館デジタルコレクション(コマ番号21/114)、2025年9月6日閲覧</ref><ref>趙豊衍, 1989, 『서울 잡학 사전』, 정동출판사, P432-433</ref>。
  
 
=== 文献上の記録 ===
 
=== 文献上の記録 ===
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*釜山日報の記事
 
*釜山日報の記事
:1926年10月5日付けの紙面には「中俊商店の蒲鉾」という記事があり、釜山府南浜2丁目(現在の釜山市中区南浦洞)にある「中俊商店」の蒲鉾が紹介されている。記事は日本語で書かれており、「釜山南浜二丁目中俊支店蒲鉾部製造の蒲鉾は昨年末発売以来、日尚ほ浅きにも拘らず一般卸小売の需要家から非常なる好評を受け、毎日の注文が応じきれない程の盛況振りを示してゐるが尚ほ同店独特のゴマ入蒲鉾は味附きの昆布を小さくきざみこんだ粋なもので目先の変って居ることと味の良いのとで進物用として公表を受けていると(紹介)」(原文に句点を追加、漢字は新字に変更)とある<ref>[http://db.history.go.kr/item/imageViewer.do?levelId=npbs_1926_10_05_w0007_1040 中俊商店の蒲鉾] 、韓国史データベース、2017年11月2日閲覧</ref>。
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:1926年10月5日付けの紙面には「中俊商店の蒲鉾」という記事があり、釜山府南浜2丁目(現在の釜山市中区南浦洞)にある「中俊商店」の蒲鉾が紹介されている。記事は日本語で書かれており、「釜山南浜二丁目中俊支店蒲鉾部製造の蒲鉾は昨年末発売以来、日尚ほ浅きにも拘らず一般卸小売の需要家から非常なる好評を受け、毎日の注文が応じきれない程の盛況振りを示してゐるが尚ほ同店独特のゴマ入蒲鉾は味附きの昆布を小さくきざみこんだ粋なもので目先の変って居ることと味の良いのとで進物用として公表を受けていると(紹介)」(原文に句点を追加、漢字は新字に変更)とある<ref>[http://db.history.go.kr/common/imageViewer.do?levelId=npbs_1926_10_05_w0007_1040 中俊商店の蒲鉾] 、韓国史データベース、2025年9月6日閲覧</ref>。
  
 
*東亜日報の記事
 
*東亜日報の記事
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*釜山日報の記事
 
*釜山日報の記事
:1928年1月21日付けの紙面には、「麗水の火事 蒲鉾屋から焼き出す」という記事が掲載されており、この時点で現在の[[全羅南道の料理|全羅南道]][[麗水市の料理|麗水市]]にも蒲鉾の製造業者があったとわかる<ref>[http://db.history.go.kr/item/imageViewer.do?levelId=npbs_1928_01_21_x0004_0630 麗水の火事 蒲鉾屋から焼き出す] 、韓国史データベース、2017年11月6日閲覧</ref>。
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:1928年1月21日付けの紙面には、「麗水の火事 蒲鉾屋から焼き出す」という記事が掲載されており、この時点で現在の[[全羅南道の料理|全羅南道]][[麗水市の料理|麗水市]]にも蒲鉾の製造業者があったとわかる<ref>[http://db.history.go.kr/common/imageViewer.do?levelId=npbs_1928_01_21_x0004_0630 麗水の火事 蒲鉾屋から焼き出す] 、韓国史データベース、2025年9月6日閲覧</ref>。
  
 
;ソウルのコンニャク売り
 
;ソウルのコンニャク売り
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1930年代に入ると[[釜山市の料理|釜山]]、[[統営市の料理|統営]]といった南部の港町だけでなく、幅広い地域での蒲鉾製造が行われるようになった。
 
1930年代に入ると[[釜山市の料理|釜山]]、[[統営市の料理|統営]]といった南部の港町だけでなく、幅広い地域での蒲鉾製造が行われるようになった。
 
*釜山日報の記事
 
*釜山日報の記事
:1930年12月13日付けの紙面には、「忠南大川名物の蒲鉾 遠く満州迄進出」という記事が掲載されている。忠南大川とは現在の[[忠清南道の料理|忠清南道]][[保寧市の料理|保寧市]]大川洞を指し、この地域にあった「高木商店」の蒲鉾人気を報じている。記事は日本語で書かれており、全文は以下の通りである。「(天安)忠南大川は将来忠南唯一の漁港として嘱目されて居るだけありて魚類は非常に豊富であるので、同地高木商店の蒲鉾は大川名物として大(おおい)に賞賛せられ京南沿線各地京龍地方は勿論、南は大邱、北は遠く満州に迄搬出されて、需要益々増加するので製造元の高木商店は天手古舞(てんてこまい)の繁忙を極めて居るとのこと」(原文に句点を追加、漢字は新字に変更、一部に読み仮名を追加)<ref>[http://db.history.go.kr/item/imageViewer.do?levelId=npbs_1930_12_13_v0007_1160 忠南大川名物の蒲鉾 遠く満州迄進出] 、韓国史データベース、2017年11月2日閲覧</ref>
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:1930年12月13日付けの紙面には、「忠南大川名物の蒲鉾 遠く満州迄進出」という記事が掲載されている。忠南大川とは現在の[[忠清南道の料理|忠清南道]][[保寧市の料理|保寧市]]大川洞を指し、この地域にあった「高木商店」の蒲鉾人気を報じている。記事は日本語で書かれており、全文は以下の通りである。「(天安)忠南大川は将来忠南唯一の漁港として嘱目されて居るだけありて魚類は非常に豊富であるので、同地高木商店の蒲鉾は大川名物として大(おおい)に賞賛せられ京南沿線各地京龍地方は勿論、南は大邱、北は遠く満州に迄搬出されて、需要益々増加するので製造元の高木商店は天手古舞(てんてこまい)の繁忙を極めて居るとのこと」(原文に句点を追加、漢字は新字に変更、一部に読み仮名を追加)<ref>[http://db.history.go.kr/common/imageViewer.do?levelId=npbs_1930_12_13_v0007_1160 忠南大川名物の蒲鉾 遠く満州迄進出] 、韓国史データベース、2025年9月6日閲覧</ref>
  
 
*釜山日報の記事
 
*釜山日報の記事
:1931年1月17日付けの紙面には、「咸興地方に於ける蒲鉾の需要増加 統営産品が大持て」という記事が掲載されている。[[統営市の料理|統営]]産の蒲鉾人気を報じたもので、記事は日本語で書かれており、全文は以下の通りである。「(咸興)咸興地方に於ける蒲鉾の需要は人口の増加に伴ふて著るしく激増。地元産品のみでは充分需給調節を計る事は不可能である為、仁川方面から釜山、統営等の生産品が続々入荷され、相当の取引値段で消化されているが、此の中で品質から味に至る迄、最も賞用されてゐるのは統営産品で、釜山地方で製造されるものは逐年品質は勿論、味の点も落ちて行くと云ふので需要家筋は統営産品々々と其入荷を待ちつつあるの現状である」(原文に句読点を追加、漢字は新字に変更)<ref>[http://db.history.go.kr/item/imageViewer.do?levelId=npbs_1931_01_17_v0007_1030 咸興地方に於ける蒲鉾の需要増加 統営産品が大持て] 、韓国史データベース、2017年11月2日閲覧</ref>
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:1931年1月17日付けの紙面には、「咸興地方に於ける蒲鉾の需要増加 統営産品が大持て」という記事が掲載されている。[[統営市の料理|統営]]産の蒲鉾人気を報じたもので、記事は日本語で書かれており、全文は以下の通りである。「(咸興)咸興地方に於ける蒲鉾の需要は人口の増加に伴ふて著るしく激増。地元産品のみでは充分需給調節を計る事は不可能である為、仁川方面から釜山、統営等の生産品が続々入荷され、相当の取引値段で消化されているが、此の中で品質から味に至る迄、最も賞用されてゐるのは統営産品で、釜山地方で製造されるものは逐年品質は勿論、味の点も落ちて行くと云ふので需要家筋は統営産品々々と其入荷を待ちつつあるの現状である」(原文に句読点を追加、漢字は新字に変更)<ref>[http://db.history.go.kr/common/imageViewer.do?levelId=npbs_1931_01_17_v0007_1030 咸興地方に於ける蒲鉾の需要増加 統営産品が大持て] 、韓国史データベース、2025年9月6日閲覧</ref>
  
 
*『全国飲食料業界大鑑 満鮮の部』の記事
 
*『全国飲食料業界大鑑 満鮮の部』の記事
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