コリアうめーや!!第200号

コリアうめーや!!第200号

<ごあいさつ>
7月になりました。
長らく続いてきたメルマガですが
いよいよ今号で、さらなる大台に乗ります。
ありがたいことに第200号。
2001年3月の創刊から数えると、
なんと、8年4ヶ月にもなるんですね。
我ながらよく続いていると思います。
仕事が重なって忙しいときなどは、
もう止めようと思うこともありました。
それでも長く続けてきたことを考えると、
また読んでくれる人がいることを考えると。
結局、書かずにはいられませんでした。
大台到達という快挙もすべて、
楽しみに読んでくれる皆様のおかげです。
本当に長い間、ありがとうございます。
さて、そんな記念号の内容ですが、
毎回25号刻みの、特別企画があります。
時計の針をキリキリと巻き戻し、
個人的な思い出話を書き綴るのが恒例。
今号でもお付き合い頂ければ幸いです。
コリアうめーや!!第200号。
また新たな気持ちで、スタートです。

<あの日あの時あの人と……8>
美味しいものを食べた思い出がある。
あの日あの時あの人と、一緒に食べた味わい深い思い出がある。

「僕の兄と姉を紹介しよう」

と声をかけてもらったのは2005年5月。
僕は前年末に2冊目となる著書を出版し、
ようやく駆け出しライターになった頃だった。

声をかけてくれたのは朝日新聞の記者氏。

彼が留学中だった頃にソウルで知り合い、
その縁で韓国料理関連の仕事でも声をかけてくれた。
僕にとって初めての新聞連載となる、
「コリアうまかー!!」を企画した人物である。

その記者氏が東京に出張でやって来る。

空き時間を利用して、友人知人と集まり飲むとのこと。
その席に僕もお邪魔させて頂くことになった。

ちなみに兄、姉とは血のつながった関係ではなく、
韓国的な意味での兄(ヒョン)と姉(ヌナ)。
韓国では親しい先輩のことを家族同然の間柄として、
兄、姉と親しみを込めて呼ぶ習慣がある。

要は韓国関係の先輩を紹介してくれるということ。

僕がこれから仕事をしていくうえで、
プラスになるだろうと、声をかけてくれたのだ。

その兄というのが、後に僕が師匠と崇める、
イベントプロデューサーの佐野良一さん。
姉は韓国通の俳優として知られる黒田福美さん。
記者氏も含めてそうそうたるメンバーだが、

「へー、ソウルの達人に会えるんだ」

と僕はのんきに浮かれていた。
ちなみにこのとき、師匠のことは名前すら知らない。

また、失礼なことに僕はこの日先約があり、
別の場所で飲んでから、遅刻で合流する予定だった。
大先輩との初対面を考えると超のつく無礼者だ。

僕が到着したのはスタートからほぼ3時間後れ。

会場となったのは師匠宅である。
さすがにまずいかと恐る恐る顔を出すと、
予想外にみな笑顔で大歓待してくれた。

「おお、よく来たね!」
「遅かったじゃないか、さあ真ん中に!」
「まずはビールでいいのかな?」

このとき僕は28歳。

遅刻してきた若造に過ぎたもてなしだが、
事前に記者氏が僕のことを褒めてくれていたのだろう。
韓国と真剣に向き合っている気鋭の青年。
そんな扱いで、最初はどうも戸惑ってしまった。

促されるままに、それまでの活動を語る。

1999年から韓国留学に出かけたこと。
2001年からメールマガジンを書き始めたこと。
2002年に眞露から奨学金をもらい、韓国を1周したこと。
2003年に初めての著書を出版したこと。

そのときの細かな会話までは覚えていないが、
ひとつ印象に残っていることがある。

「韓国料理に興味があるっていうヤツは多いけどな」
「アンタみたいに本気で研究しているヤツとは初めて会った」
「ワシャもう少しアンタとしゃべりたい、気に入った」
「時間があるならもう少しゆっくりしていきなさい」

すでにお開きになりそうな時間だったが、
佐野師匠は僕をしばしの間、引き止めてくれた。
その短い時間が、後の長い付き合いへとつながった。

僕は僕で佐野師匠にとても驚いていた。

1999年からの留学で韓国料理にハマり、
その魅力を発信していたものの、正直わからないことだらけだった。
料理の概要は調べられても、歴史や背景は不明点が多い。

手元に資料は少なく、インターネットも不充分。
必要な情報は自分で調べて蓄積するしかなかった。

メルマガを書き、ホームページに情報をまとめ、
料理や食材の用語も翻訳し、辞書を自分なりに作った。
何から何まで手探りの日々だったように思う。

自分なりに調べて解決する楽しさはあったものの、
たいへんに効率が悪く、また正確性にも乏しい。

「誰かに聞けたら楽なんだけどな……」

というところへ佐野師匠の登場である。

記者氏からだいたいの話は聞いていたものの、
すごい人だというのは、会って初めて理解ができた。

師匠が韓国を初めて訪れたのは1976年。

ちょうど僕が生まれた年でもあるのだが、
その時代から、韓国に携わった日本人というのは稀である。
韓国の新聞社「韓国日報」の記者として韓国に滞在し、
かつ韓国の宮中料理についても学んでいた。

当時ホームステイ(師匠曰く、居候)していたのが、
宮中飲食研究院を主宰していた故・黄慧性先生宅。

黄慧性先生は宮中料理研究の第一人者であるとともに、
国から技能保有者(人間国宝に相当)にも指定された方だ。
僕にとってはまったくもって雲の上の存在であり、
数々の著書を読んでは、勉強させて頂いていた。

「お母さんは本当に好奇心の塊みたいな人で……」

と師匠は黄慧性先生のことを母として語った。
先生も師匠のことを日本の息子と呼んでいたそうだ。
師匠が語る黄慧性先生のエピソードは、
尊敬する人の日常に触れるようで興味深かった。

また、僕は師匠宅の本棚にも感銘を受けた。

そこには韓国料理に関する数々の資料があり、
いずれも僕が長年抱えていた疑問を解消するものだった。
話題の端々で、師匠は適当な本を抜き出し、
料理にまつわる歴史や背景を説明してくれた。

「ああ、こんな人がいたんだな……」

自分の進もうとしている道の先に、
それをはるか前から探求していた人がいる。
暗闇の中、手探りで進んでいた道のりに、
パッと明かりがともったような気がした。

その後、僕は師匠宅へと足しげく通うようになる。

師匠宅に通う魅力は、師匠との会話もそうだが、
訪れるたびにご馳走してくれる手料理にもあった。

宮中料理の勉強をしていたぐらいだから料理は堪能。

だが、それだけでは表現しきれないほど、
師匠の料理は引き出しが多く、バラエティに富んでいた。
同時期に僕はブログ「韓食日記」を始めており、
師匠宅での料理はその人気記事のひとつとなった。

せっかくなので一部を抜き出して紹介しよう。

まず、やはり魅力的なのは韓国料理の数々。
例えば2007年3月6日にはこんな料理を頂いた。

・カルビチム(牛カルビと大根の煮物)
・赤カブのムルキムチ(汁気の多いキムチ)
・ノビルの唐辛子酢味噌和え
・オイキムチ(キュウリのキムチ)
・パギムチ(細ネギのキムチ)
・チヂミ
・豚軟骨のカムジャタン(ジャガイモ鍋)

ノビルなどの季節食材をさりげなく使いつつ、
カルビチム、カムジャタンといった手のかかる料理も披露。
特にカムジャタンは豚の背骨を使うのが常道だが、

「家庭料理なら豚軟骨が楽だし、何より食べやすいよ」

ということでアレンジを効かせている。
僕はそのとき初めて豚軟骨の存在を知ったが、
品揃えのあるスーパーなら案外手に入るとのこと。
少なくとも日本においては背骨より一般的だ。

また、2008年2月4日はこんな料理。

・金柑入り宮中タッチム(鶏の蒸し煮)
・梅醤油で味わう高知産カマボコ
・ホウレンソウ、豆モヤシ、シイタケのナムル
・切干大根と豚のスペアリブ入りピジチゲ(おから鍋)
・オゴッパプ(五穀飯)

タッチムは鶏肉、ナツメなどを醤油味で煮込んだ料理。
そこに友人から贈られたという金柑を加えることで、
自然な甘味と色合いの鮮やかさを演出していた。

メインのひとつであるピジチゲも師匠の得意料理。

豚のスペアリブをほろほろになるまでじっくり煮込み、
白菜キムチ、切干大根を加えた上でおからを投入。
おからが豚の旨味、切干大根の甘味をぎゅっと吸い込んで、
素朴な見た目ながらも、実に豊かな味わいとなる。

そこに添えられるオゴッパプがまた嬉しい。

師匠宅のごはんには必ず何かが混ぜ込まれており、
時によって大豆だったり、ジャガイモだったりする。

それぞれの料理に気の利いたちょっとのひと手間。

そこには師匠ならではの工夫と気配りが詰まっており、
いつご馳走になっても、その姿勢に驚かされる。

さすがは宮中料理を学んだ方、と感心するが
一転して、和風、洋風、世界各国料理も出てくる。

例えば、2007年5月9日はこんな感じ。

・ブロッコリーとジャガイモのグラタン
・ズッキーニとパプリカのトマトソース煮込み
・ナスタチウムの花入りサラダ
・春キャベツとツナのパスタ
・ガーリックトースト

続いて、2007年7月5日は和風料理。

・夏野菜の煮物のゼリー寄せ
・夏野菜と鮭のグリル
・ミョウガと青じその和風サラダ
・冷や汁素麺
・大豆ごはん

あるいは、2008年9月2日。

・トマトと鶏肉のカレー
・ゴーヤとツルムラサキのカレー
・塩とチリペッパーを振ったパイナップルのデザート

2種類のカレーはどちらもスリランカ風。
師匠はかつてスリランカに滞在したことがあり、
韓国だけでなく、スリランカ料理にも造詣が深い。

ほかにも師匠は無類のパン好きを自認しており、
日々、新たなサンドイッチ考案に情熱を燃やしている。

ある日はロールパンにバターを塗り、
自作の鶏味噌にエゴマの葉を加えたロールサンド。
和洋の組み合わせに、韓国野菜のエゴマの葉を加え、
その鮮烈な香りで全体の統一感を図っていた。

また別の日は、チャジャンミョン(韓国式ジャージャー麺)を、
ロールパンに挟んで、韓国式焼きそばパンなるものを考案。

一種のキワモノ料理かと思いきや、
これがまた独特の香ばしさを発揮していて美味しい。
伝統的な宮中料理からオリジナルの創作料理まで、
幅広い料理を作って、多くの友人、知人をもてなしている。

食べて語るだけでなく、作れるというのは非常に大きいこと。

僕も韓国料理を食べて語るほうは頑張ってきたが、
作るという点においては素人で、まだまだ趣味の粋を出ない。
自宅で仕事をするときは、日々の食事を作るものの、
基礎がないので、なかなか上達しないのが悩みだ。

このあたりも師匠の背中を見ながら学び、
今後、活動していく上での糧にしなければならない……。

といった感じに、目一杯持ち上げてみたが、
普段は酒好きで毒舌トークを炸裂させる元気なオッサン。
尊敬する師匠ではあるが、一緒に写真を撮ったときなど、

「なんでお前のほうが若く見えるんや!」

と当たり前のことでイチャモンをつけてくる。
共著本で2人のイラストを書いてもらったときも、

「目に星が入っていない!」
「もっと美しくないとダメ!」
「池田理代子先生に描いてもらってくれ!」

と無理難題を編集者にぶつけていた。

日々、新大久保に繰り出してマッコリをガブ飲みし、
千鳥足になって帰っていくところを見ると、

「この人が師匠でいいのだろうか」

と勝手に弟子を名乗った割りに悩んでしまう。
だが、僕の周囲にいる人は、

「ぴったりじゃん!」

と一笑に付すので、きっと正しい選択だったのだろう。

先日、韓国にマッコリをテーマにした取材に出かけ、
1929年創業という3代続く老舗醸造場を訪れた。
その歴史を目の当たりにしておおいに感動したのだが、
直後に、人づてで話を聞いたらしい師匠からメールが届いた。

曰く、その醸造場は

「30年程前に僕が初めてマッコルリに出会ったところのようです」

とのこと。

師匠は大きなアルマイトのヤカンいっぱいにマッコリを買い、
その場で大根キムチを肴にしつつ、おおいに痛飲したとのこと。
送られてきたメールには当時の写真が添付されており、
今の僕よりも少し若い師匠が、青年の笑顔を振りまいていた。

その姿に少しぐっときた。

師匠が30年前に歩いた道を、
知らずのうちに、僕も道を重ねて歩いている。
同じマッコリを飲んで酔っ払っている。

やはりぴったりなのだろう。

韓国という国は広いようで案外狭い。
だが狭いと思っていると、予想以上に奥が深い。
韓国料理の世界もまた同様である。

道を重ねつつ、立ち止まりつつ、切り開きつつ。

200号という節目に立って改めて、
よい師匠に出会ったことを心から感謝したい。

<お知らせ>
仕事が忙しくHPの更新ができません。
落ち着いたら、まとめて更新したいと思います。
http://www.koparis.com/~hatta/

<八田氏の独り言>
創刊時には想像もしなかった200号。
次の大台は2013年の予定です。

コリアうめーや!!第200号
2009年7月1日
発行人 八田 靖史
hachimax@hotmail.com



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